故郷や どちらをみても 山笑ふ
故郷は いとこの多し 桃の花
この2つの俳句は、 肺結核と脊椎カリエスを患って34歳で病死した俳人、 正岡子規によるものです。 どちらにも春の季語が入っています。 彼が病に伏す前の作品ですので、 生き生きとしていて、 明るい爽やかな大気を感じます。 故郷とは四国の松山のことです。
立ち出でて 蕎麦屋の門の 朧月
朧月 須磨の釣舟 ありやなし
朧月も春の季語です。 近年になって春霞や朧月は黄砂のせいであることが判明し、 文学が興ざめになったと考える人もあれば、 逆に中国との繋がりを感じて趣( おもむき )を感じる人もあろうかと思います。 朧月とは、 月に暈( かさ )がかかっているのではなく、 月が霞んでいることを言います。 最近では見なくなりましたが、 子供のころに、 お日様に虹色の暈がかかっているのを見かけることがよくありました。 二重になっているときもありました。 お日様の暈は、 虹と同様、 光の屈折による現象です。 巻層雲が六角柱の小さな氷の粒から成り立っているとき、 その氷の粒を太陽の光が通過する時に屈折して分光し、 本来なら私たちの目に届くはずのない光が見えるそうです。
さて、 この2つの俳句は、 明治28年( 27歳 )に、 日清戦争の従軍記者の仕事を終えた帰国の船中で2度目の大量喀血をし、 神戸の病院に入院していたときに作られたものです。 ここからが、 彼の闘病生活の始まりであり、 文人としての本格的活動の始まりでした。 彼が入院していたのは、 5月23日 から 8月20日 の間ですから、 この2つの俳句は、 彼の頭の中で作られたものと思います。 晩年に彼が到達した境地「 写生 」とは少し異なります。
退院後彼は、 故郷の松山の愚陀仏庵という所で、 学生時代からの友人であり、 たまたま松山に来て教師をしていた夏目漱石と52日間の共同生活を送り、 句会三昧をした後、 東京に帰ります。 それからは脊椎カリエス( 結核性脊椎炎 )を併発し、 口から膿や血を吐く上に、 腰にはいくつもの穴があいて膿が湧き出て、 痛みのために床に伏すようになります。 膿とは、 細菌 と それと戦う白血球 と 自分の組織 の死骸たちのことです。 そして、 彼の俳句には、 ガラス障子越しに覗いた自宅の庭の植物が多く出てくるようになっていきます。
そのころ、 西洋では、 事物を科学的に緻密に観察して、 正確に写実的に表現する技法が発達していました。 彼はこのような西洋の美術や哲学にも接し、 日本の文学においても、 事物の簡潔な描写が大切であるとして「 写生論 」を説き、「 知識で作った観念的な俳句 」や「 言葉遊び的な、 あるいは、 修辞技巧的な俳句 」を嫌いました。 彼の言いたかったことは、「 何気ない自分の日々の暮らしを、 自分の言葉で素直に描くこと。」ではないかと思います。
糸瓜(へちま)咲いて 痰のつまりし 仏かな
をとゝひの 糸瓜の水も 取らざりき
痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
明治35年( 1902年 )、 この3つの俳句が、 彼の絶筆となりました。

その他と物理学 へ戻る