稲作農機の昭和史
経済学と物理学 へ戻る
ばいおりんの日常物理学文集 へ戻る
2012.04.18


  実家の近くの道の駅では、 自慢のお米が販売されています。 市場価格の約2倍の高値で売られています。 袋には生産者の名前が書いてありますので、 いい水があって昼夜の寒暖の差の著しい田んぼのある、 山の麓に近い地区だと思われる苗字を選びます。 一味違います。

  道の上の馬にとって代わったのは車で、 田んぼの中の牛にとって代わったのはトラクターです。 トラクターとは元々は牽引車のことですが、 田んぼにおいては、 乗用型 耕運機 兼 代掻きしろかき機 です。

  稲を刈り取った後は、 茎に付いているもみを外し( 脱穀 )、 籾殻をむいて玄米を取り出す( 籾摺り )必要があります。 それから、 玄米を削って白米にする( 精米 )ことが必要です。 稲作道具の機械化自動化の研究は、 大正15年( 1926年 )の井関邦三郎( 井関農機の創業者 )による「 自動籾摺り機 」の発明が火付け役です。 当時の動力は石油発動機でした。 発動機とはエンジンのことです。 当時は「 ヤンマー 」や「 クボタ 」という国産発動機メーカーがありましたが、 まだ外国産のものには性能が及ばず、 大正時代末期には石油発動機がさかんに輸入されていたようです。 昭和15年には井関農機により「 自動脱穀機 」が開発されます。 昭和25年ころには国産の軽量な石油発動機が開発され、 改良された「 自動籾摺り機 」や「 自動脱穀機 」が大量に普及するようになり、 昭和35年( 1960年 )までには、 地域での共同購入により、 全国各地に行き渡ります。 このころから、 農機具の発動機は石油に代わって重油によるディーゼルエンジンが普及し、 ヤンマー も ヰセキ と クボタ がリードしていた農機具生産販売分野に参入してきて、 耕運機やトラクターの時代へと突入していきます。 耕運機の開発は戦前から行われていましたが、 実用化は戦後になり、 全国に普及するのは、 昭和35年以降です。 昭和34年に井関農機によって開発された農業用トラクターは10馬力 でしたが、 改良が進んで10年後には25馬力くらいになります。

  昭和36年に農業基本法が制定され、 農業経営を安定させて他産業との所得格差をなくすため、 政府は企業的農業経営者を育成して農業の生産性を高めようとしました。 そのため、 区画整備 や 産地特有の労働集約型商品農作物の奨励 や 大型機械の導入 などを進める「 農業構造改善事業 」が翌年から展開されます。 その中で、 井関農機は、 昭和41年に国産コンバインを開発します。 コンバインとは、 刈取機( バインダー )と 脱穀機 を合体したものです。 このコンバインは、 手押し式で、 キャタピラー走行になっており、 籾はチャックの付いたナイロンで編まれた通気性のいい袋に詰められるようになっていました。 また、井関農機が 田植え機 を開発したのが昭和43年で、 これにて、 稲作作業の全工程自動化( 稲作作業の機械的系統化 )が完成し、 その作業強度は戦前の約5分の1までに軽減され、 労働時間は戦前の約3分の1までに短縮されました。 減反政策( 米価高騰予防 と 転作促進 のため )が本格的に始まった昭和46年から販売された 田植え機の「 さなえ 」は、 昭和50年に桜田淳子のコマシャールで大ブームになりました。 田植え機の車輪はタイヤではなく、 小さなすきがたくさん取り付けられた鉄の輪です。 そして、 昭和53年には乗用型田植え機が開発されました。

  稲作道具の機械化自動化は、 共同作業の必要性をなくして個人的農業経営を導いたのですが、 ほとんどの農家が、 高価な農機具などの投資金を回収できなくなり、 稲作労働の短縮化で余った時間を、低賃金の日雇い労働に費やさなければならなくなったのも事実です。 ワコールの下請け会社なども田舎に多く作られました。 当時の農村においては、 農業の機械化とは、 家庭電化製品の普及と相まって、「 きつい農業労働や家事や地域 」による束縛から「 きついお金 」による束縛への転換過程でありました。