フランスのデカルトよりもおよそ150年後のフランス革命前に活躍したドイツの哲学者カントは物の存在様式について次のように考えました。
物自体が発する情報が人間の感覚器を刺激し、それを「人間が生まれ持っている自然科学的な理性」が解釈した結果、姿を現すのが現象界である。我々はこの現象界に生きている。物自体が発する情報が「人間の自然科学的な理性」を作るのではなく、初めから我々に備わっている「人間の自然科学的な理性」が物自体の発する情報を材料にして物の現象を作るのである。
もちろん彼は 先天的あるいは後天的に作られる道徳心の存在 や 後天的な科学的知識の存在 を否定しているのではありません。私は、彼のこの発想は仏教の十二縁起に似ていると思います。十二縁起では、無明ありて行あり、行ありて識あり、識ありて名色あり、名色ありて六処あり、六処ありて触あり、触ありて受あり、受ありて愛あり、・・・・・と続きます。
無明とは、はるか昔から続いている「無分別智」の無い状態のこと。
行とは、「先天的な業」のこと。( 後天的な業もある。)
識とは、分別する無意識のこと。
名色とは、心が作る虚像のこと。
六処とは、6つの感覚器・感覚神経が存在すること。
触とは、情報が6つの感覚器を刺激すること。
受とは、6つの感覚器が情報を受け入れること。
愛とは、分別のこと。
参照: 哲学と物理学 > 心のブラックホールと十二縁起
このように、「人間は外界から自分が受け入れ可能なものだけを取り入れて作り上げた虚像の世界の中で生きているんだ」と、「だから苦しいんだ」と、「苦しみの原因は外界ではなくて自分の方にあるんだ」と、仏教哲学はそう言っているんだと思います。
日本の明治時代の前半にドイツで活躍したニーチェは、古代ギリシャのプラトンの哲学を基礎としカントからヘーゲルへと発展し確立した近代哲学をぶっ壊そうとしました。イデア( 理性 )という、自然の中から生まれたものでなく自然を
俯瞰するために人が勝手に作り上げたもの、を重要視するこれまでの哲学は、中世のヨーロッパにおいては支配者たちが支配する人たちの感性を抑え込む道具にしか過ぎなかったと考え、新たな「国民国家」にマッチする哲学を創造しようとしたのです。彼が目指した「生きていて変化し続けている自然の中から生まれてくる人間の存在を分析する学問」は、仏教哲学と相通ずるものがありますが、「人間の感性の発現」を目的としたところは、仏教哲学と異なるところでした。時にはそれも必要ですが、「自分の感性の発現」にとらわれてしまうのは、「自己流正義」の肯定とそれに反するものへの否定へとつながり、大変危険なことになると思います。