カントと仏教哲学とニーチェと
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2021.12.02_____

 フランスのデカルトよりもおよそ150年後のフランス革命前に活躍したドイツの哲学者カントは物の存在様式について次のように考えました。  もちろん彼は 先天的あるいは後天的に作られる道徳心の存在 や 後天的な科学的知識の存在 を否定しているのではありません。私は、彼のこの発想は仏教の十二縁起に似ていると思います。十二縁起では、無明ありて行あり、行ありて識あり、識ありて名色あり、名色ありて六処あり、六処ありて触あり、触ありて受あり、受ありて愛あり、・・・・・と続きます。  このように、「人間は外界から自分が受け入れ可能なものだけを取り入れて作り上げた虚像の世界の中で生きているんだ」と、「だから苦しいんだ」と、「苦しみの原因は外界ではなくて自分の方にあるんだ」と、仏教哲学はそう言っているんだと思います。


 日本の明治時代の前半にドイツで活躍したニーチェは、古代ギリシャのプラトンの哲学を基礎としカントからヘーゲルへと発展し確立した近代哲学をぶっ壊そうとしました。イデア( 理性 )という、自然の中から生まれたものでなく自然を俯瞰(ふかん)するために人が勝手に作り上げたもの、を重要視するこれまでの哲学は、中世のヨーロッパにおいては支配者たちが支配する人たちの感性を抑え込む道具にしか過ぎなかったと考え、新たな「国民国家」にマッチする哲学を創造しようとしたのです。彼が目指した「生きていて変化し続けている自然の中から生まれてくる人間の存在を分析する学問」は、仏教哲学と相通ずるものがありますが、「人間の感性の発現」を目的としたところは、仏教哲学と異なるところでした。時にはそれも必要ですが、「自分の感性の発現」にとらわれてしまうのは、「自己流正義」の肯定とそれに反するものへの否定へとつながり、大変危険なことになると思います。