活動写真の歴史( 昭和19年まで )
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2023.03.19____

1882年 ( 明治15年 )
 フランスのエミール・レイノーが、映写機(幻灯機)を発明し、スクリーンに映像を映し出すことに成功した。 この年、さらに彼は、世界で最初の映画とされるフィルム映画「一杯のビール」を作成した。

1888年
 さらに彼は、パーフォレーション( フィルムの縁に一定間隔で打ち抜かれている穴。フィルムを送ったり巻き取ったりするためのもの。)のついたフィルムを上映する テアトルオプティーク を発明した。その後10年間以上に渡り、パリで繰り返し上映会が行われた。

1891年
 アメリカのトマス・エジソンが キネトスコープ を発明した。それは後年日本に輸入されると「のぞきからくり」と呼ばれた。キネトスコープは映写機ではないが、それまでの絵によるアニメーションではなく、写真を使った映像を見せるもので、その仕組みが映画の基本的技術となった。彼はまた、撮影装置 キネトグラフ も発明した。

1894年
 ニューヨークでキネトスコープの一般公開が始まる。

1895年 ( 明治28年 )
 フランスのリュミエール兄弟が、写真による連続映像をスクリーンに映し出す シネマトグラフ を開発した。これは史上初めて本格的な映画と呼べるものであった。彼らはこの年の12月に、パリでシネマトグラフを見せて観客からお金を取った。これが「映画の誕生」とされている。
 一方、エジソンはキネトスコープと蓄音機を結合したキネトフォンを開発し、映像と音を同期する試みを行った。彼は発明家以上に実業家であり、その後の映画産業を牽引していくことになる。この年にアメリカの ジェンキンス と アーマット が開発した映写機 ファントスコープ の権利を翌年に手に入れて彼の映画会社「エジソン社」が商品化した。
 日本では、松次郎・竹次郎が芝居興業会社「松竹合名社」を設立した。

1896年
 日本で初めてキネトスコープが公開される。

1897年 ( 明治30年 )
 日本で初めての映画上映( 興行 )が大阪でシネマトグラフを用いて行われる。その1週間後には、その近くでファントスコープを用いて行われた。この時にはまだ無かったが、この年、日本初の活動弁士を務めたのが駒田好洋であった。

1898年
 日本で初めて映画が作られる。浅野四郎におる「化け地蔵」である。

1899年
 日本で作られた映画が初めて興行される。それは浅野四郎が撮った芝の料亭「紅葉館」での3人の芸者の踊りであった。駒田好洋が活動弁士を務めている。
 また、歌舞伎座公演終了直後にその裏で野外上映された九代目市川團十郎の「紅葉狩」もこの年に制作された日本映画である。これは東京国立近代美術館フィルムセンターに保存されている最古の日本映画である。

1903年 ( 明治36年 )
 日本初の専門映画館が誕生する。浅草の見世物小屋「電気館」を横田商会が買い取ってできたものである。

1904年
 日露戦争の記録映画が作られる。

1907年
 アメリカでは、エジソン社からはじかれたユダヤ系のプロデューサーを中心とする映画会社たちがハリウッドで映画を制作するようになる。
 日本では、横田商会が大阪に「千日前電気館」という常設映画館を開館する。

1908年
 日本初の映画撮影所が目黒の行人坂に作られる。

1909年
 日本初の映画スター誕生。その名は尾上松之助。時代劇というジャンルを築いた映画監督 牧野省三 は、彼を使ってトリック撮影を行い忍者映画を作っている。

1910年
 映画興行師 小林喜三郎 がフランス映画「探偵奇譚ジゴマ」を買い付けて公開する。

1911年 ( 明治44年 )
 日本初の映画関連株式会社である日本興業株式会社が設立され、映画館建設が加速していく。

1912年 ( 大正元年 )
 日本活動写真株式会社が創立される。日活株式会社の前身である。
 京都に「横田商会法華堂撮影所」ができる。

1914年 ( 大正3年 )
 第一次世界大戦が始まる。


1916年
 日本でチャップリンの放浪者を演じた短編映画が公開される。

1919年
 松竹合名社が活動写真事業に乗り出す。

1920年 ( 大正9年 )
 松竹キネマ合名社が設立され、蒲田撮影所ができる。
 「島の女」が公開される。
 サイレント映画の代表作「ジキル博士とハイド氏」が世界中で公開される。

1921年
 松竹映画の第1作「路上の霊魂」が公開される。

1923年 ( 大正12年 )
 関東大震災が起きる。


1925年 ( 大正14年 )
 アメリカでチャップリンの「黄金狂時代」が公開される。
 ソ連で「戦艦ポチョムキン」が公開される。
 日本では日活の時代劇の映画スターの尾上松之助主演の「落花の舞」が公開される。

1927年 ( 昭和2年 )
 世界初の本格的トーキー映画「ジャズ・シンガー」がアメリカで公開される。
 アカデミー賞が創設される。
 日本では「恥しい夢」に芸者役で主演した田中絹代が映画女優スターになる。彼女は2年後に出演した「大学は出たけれど」で大スターの座を確固たるものとした。
 日活太秦撮影所ができる。

1929年
 ハリウッドの映画監督ヒッチコックの「恐喝」がアメリカで公開される。

1930年 ( 昭和5年 )
 アメリカで「西部戦線異状なし」が公開される。

1931年
 日本初の本格的トーキー映画「マダムと女房」が公開される。この映画のラストには「私の青空」という曲が流れる。

1932年
 田中絹代主演の「金色夜叉」が公開され、空前の大ヒットとなる。

1933年
 田中絹代主演の「伊豆の踊子」が公開される。
 日本劇場( 日劇 )が落成する。
 アメリカで「キングコング」が上映される。

1934年
 日活多摩川撮影所ができる。
 大日本映画協会が設立される。→ 映画の戦時体制

1935年 ( 昭和10年 )
 大河内伝次郎主演の「丹下左膳余話 百万両の壺」が公開される。
 アメリカで世界初のカラー映画「虚栄の市」が公開される。

1936年
 アメリカでチャップリンの「モダンタイムス」が公開される。

1938年
 日中戦争を描いた「五人の斥候兵」が公開される。

1939年
 アメリカで西部劇映画の代表作「駅馬車」が公開される。
 アメリカでハリウッド映画の代表作「風と共に去りぬ」が公開される。

1940年 ( 昭和15年 )
 アメリカでチャップリンの「独裁者」が公開される。
 アメリカでディズニー映画「ファンタジア」が公開される。

1942年
 大日本映画制作株式会社( 大映 )が設立される。

1942年
 「ハワイ・マレー沖海戦」が公開される。
 木下惠介が「花咲く港」で監督デビューする。

1943年
 黒澤明が「姿三四郎」で監督デビューする。

1944年
 「加藤隼戦闘隊」が公開される。
 「雷撃隊出動」が公開される。