(1) 金 と 銀
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私は、 ウィンナワルツの中ではレハールの「 金 と 銀 」が一番好きなのだが、 それよりも貴金属の 金 と 銀 のほうが好きだと言う人は多いと思う。
金

最も酸化還元反応を起こしにくい金属で、 柔らかくて伸展性があり、 熱や電気の伝導性に富む。 他の金属と混合させやすい。 オリンピック憲章には、 「 金メダルは、 純度
以上の銀製メダルの表面に
以上の金メッキしたもの 」 と記載されているので、 金メダルは、 正確には 「 金メッキをした銀メダル 」 である。 最近の金の価格は、
あたり 約
である。銀

最も熱や電気の伝導性が強い金属で、 可視光線の反射率も最大である。 伸展性がある。 抗菌作用がある。 高温にして液体にすると酸素を多量に吸収する。 表面が空気中の硫化水素によって硫化されると黒くなる。
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為替市場といえば、 インターナショナル( 国際的 )な市場であるが、 鎖国下の江戸時代では、 為替市場は国内的市場であった。 江戸時代の終わりころは、「 大坂の銀遣い、 江戸の金遣い 」と言われて、 大阪では銀貨( 丁銀 )が通過として用いられ、 江戸では、 金銀貨( 小判 )が用いられていた。 ただし、 庶民が日常に使用していたのは質の悪い銅貨( 銭貨 )であり、 その単位は一文なしの「 文 」であった。 幕府が三貨の交換比率を定めてはいたものの、 実態は市場に委ねる変動相場制であり、 この為替取引市場を担ったのが 両替商 であった。 両替商は、 元々は、 金銀貨( 小判 )を秤量銀貨や銭貨に変えるのが仕事であった。 小判というと、 金貨のように思うかもしれないが、 それは純金ではなく、 銀との合金であり、 江戸時代初期の小判こそ金の比率が多いものの、 それ以降は、 半々くらいの割合である。 当時は、 政治的あるいは経済的裏付けの確率した本位貨幣はなく、 金銀銅が値打ちこそ違いはあれ、 自由な変動相場で取引されていた。 そういう意味では、 日本は経済の国際化、 資本の集中化、 両替商の銀行化に向けて、 開国前から既に訓練されていたということである。
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黒船来航後、 明治維新まで11年の1857年、 下田での米国役人ハリスと徳川幕府の難交渉の結果、 結局ハリスの言い分が通り、 為替レート( 固定制 )が決まった。 それは、 日本に金貨がなかったために、 金ではなく銀の質量等価に基づいて行われた。 当時の日本の銀の価格は、 金本位制でいうと、 米国の
と高価であったため、
という比較的「 両安 」の為替レート( 国内通貨と外国通貨の交換比率 )となった。 そのため、 日本の金の価格が米国の金の価格の
という安価となり、 日本で金が買われて米国に流出してしまった。 もし、 幕府の主張どおり、 金の質量等価を考慮した為替レートになっていたならば、 最初は、 日本の銀の価格が米国の銀の価格より
高くなって、 米国の銀が日本に持ち込まれて金が米国に流出したであろうが、 これにはフィードバック機構が働き、 次第に日本の銀の価格が米国並みになっていき、 自然に金の国外流出は収束に向かったはずである。日本の貨幣

米国の貨幣 ( 計算しやすくするため、 少しサバを読んでいます。)

米国銀貨とは 「 メキシコ1ドル銀貨 」 のことです。日本には、 銀貨はあったが金貨がなかった。 そこで、 銀本位の為替レートになった。

が共通するので、 次のように決まった。
_______このとき、 ハリスは次のような計算をしていたはずである。


これに対して、 幕府側は次のように反論した。


しかし、 結局はハリスの言い分がとおった。 そのために、 日本から米国に金が流出して行った。 なぜなら、 日本で金を安く買って米国に持ち帰り、 それを高く売ってもうけることができるからだ。


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