心の内側と外側
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2018.08.23


 「 心の内側は秘密で、 心の外側は表現である。」という考えもあろうかとは思いますが、 今回は、 唯物論的( 科学的 )自己 ではなく 観念論的 ( 宗教的 ) 自己 の観点から、 心を捉えてみたいと思います。
  そもそも心とは何か? 心は 分別する意識 と 無意識 から構成されます。 無意識は 本能 と 蓄積された過去の人生の煩悩まみれの心 から構成されます。

  あるものに対して 近づくべきもの( 快感をもって自分が利用できるもの )か 遠ざかるべきもの( 不快感をもって自分が利用されるもの )か判断することを 分別 と言います。 私達の意識は常にそういう分別をしています。 分別とは本来、 自己中心的なものです。 唯物論では、 そういう意識のことを 自我( エゴ )と言い、 エゴを中心にしてその外側に自分以外の物が広がっているイメージなのですが、 観念論では、 自分の外側に広がっていると錯覚している物は自我が作り出した幻想であり、 自我自体も縁に因って起こる常に変化する本質のないものになります。

  分別の意識は常に心の内側の中心から湧き出て来ます。 それをいつまでも心の内側に持ち続けていることが、 執着することであり、 煩悩にまみれるということです。 それを早く心の外側へと排出して心の内側の煩悩をなくせば、 苦しみから解放されます。
 「 ああ、 また縁に因って愚かな私の心がわが身びいきの考えを起こしてしまった。」というふうに、 自分を客観的に見ることができれば、 分別の意識はすぐに心の外側に出て行ってくれます。

  ()(かん) 的に観ることができるようになるためには、 3つの方法があります。1つ目は、「 自我は縁に因って起こる常に変化する本質のないものであり、 自己と他己は1つであり空である。」という見方をすることです。 これは仏教の根本思想です。 2つ目は、 心の底から自己中心的な自分を(ざん)()することです。 この方法は、 キリスト教や仏教の浄土真宗が得意とします。 3つ目は、「 生活の中の禅定( 瞑想 )」と言われるもので、 一期一会の精神で今やっていることに集中することです。 この方法は仏教の禅宗が得意とするところであります。


  なお、 身体の内側と外側についての 唯物論的( 科学的 )考察については、 次の二つの論文を参照ください。
     人間の体のしくみ > 生理学 > からだの表面
     人間の体のしくみ > 生理学 > 人間のいのちの営み