伊能忠敬を思う
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2011.10.19


  1800年といえば、 ヨーロッパでは、 ナポレオン、 ヘーゲル、 ベートーベン が活躍していたころであり、 農業中心から工業中心の社会へ、 貴族中心から庶民中心の社会へと移り変わるころです。 この年、 日本では、 50歳を過ぎて天文学の勉強を始めた伊能忠敬が、 幕命( 幕府御用 )を受け、 自らが歩いて測量し、 東北地方の街道地図 と 北海道南岸の沿岸地図 を作ります。 そして彼はその後も74歳まで日本の地図を作り続ける生涯を送りました。 彼の没後10年目の1828年には、 オランダ人の医師&文化人類学者のシーボルトが、 学会研究発表の目的にて伊能地図を自国に持ち帰ろうとし、 スパイ容疑で鎖国政策をとっていた幕府から逮捕されるという事件まで起こっています。

  日本の測量の歴史は、 1648年に長崎でオランダ人より伝わったことから始まると言われます。 伊能忠敬が行った日本地図作成のための測量は、 昼間に行われる「 導線法 」と言われる 連続する次定点までの2次元位置ベクトル測定 と、 夜間に行われる「 測天量地 」と言われる 緯度測定 から成ります。
  夜間の緯度測定に用いられた道具は、 星座早見表、 象限儀( しょうげんぎ )、 三角台、 および、 準縄( みずばかり )と言われる水平器です。 象限儀は星の高さ( 視角度 )を測る道具で、 大きな分度器を半分にしたものに望遠鏡を取り付けたものです。 なお、 本格的な天体望遠鏡の国産1号は、 1836年の、 鉄砲鍛冶職人の国友一貫斎による反射型望遠鏡「 テレスコツフ望遠鏡 」であるとされています。
  昼間の連続する次定点までの2次元位置ベクトル測定のために用いられた道具は、 次のようなものです。 まず、「 梵天 」という背丈よりも長い竹の先に短冊状の紙を取り付けて定点に目印として立てるもの。 2番目に、 訓練された歩測。 3番目に、 長距離尺としての「 鉄鎖 」と「 間縄 」。 間縄は、 水に強く伸び縮みしにくい麻などでできた糸の巻尺であり、 鉄鎖は、 患者さんのベッド上の天上に取り付けられたフックに引っかけて点滴を適度な高さで吊れるようにするための長さ60cmくらいの点滴棒をつなげたものです。 4番目に、 伊能忠敬が考案した「 半円方位盤 」という垂直方向の角度を計る道具。 これは、 坂道の場合の距離の補正にかかせません。( cos θ をかけてやる必要があります。)「 半円方位盤 」は巨大な分度器で、 180度の目盛りがついています。 分度器がいつごろ日本に伝わってきたのかは定かではありません。 5番目に、 三脚台と水平器。 そして最後に、「 杖先方位盤 」といわれる羅針盤( 方位磁石 )。 これは、 水平方向の角度測定のためでの道具です。 羅針盤は紀元前に中国で発明されています。 なお、 彼の没後3年目に完成した 「 大日本沿海輿地全図 」 には、 高さの情報はありません。 もちろん、 彼は高さの測量も行っており、 例えば富士山は 約 3900 m と測量していたようです。 それには、「 半円方位盤 」と 三角関数 が用いられたそうです。

  実際の海岸線の測量中は、 伊能忠敬は船上から指揮をとっており、 実際に歩いたのは測量隊員たちであった模様です。 また、 その間に彼らが宿泊した宿は、 領主が選択した庄屋や組頭や油屋などの屋敷、 または、 お寺で、 そこでは地域ぐるみのおもてなしがあったものと思われます。 しかし、 彼が「 お役人気分 」にならなかったことは、 筆まめにつけられた「 測量日記 」を読めばわかります。 記述されている私的なことは、 自分が喘息になって仕事を休んだことくらいで、 宿でのおもてなしの内容のことについては一切記載がありません。 また、 領主から事前に出されていた宿の提供者への指示に由りますと、 食事は1汁3〜5菜で、 酒は振る舞わないようにとのことであったようです。

  映画「 剣岳 点の記 」では、 明治時代の、 3次元的な高さの情報( 等高線 )もある日本地図づくりが紹介されましたが、 これらの地図はもちろん伊能地図を基に作成されました。 現在は、 レーザー測量法によって簡単に正確な高さが解るのですが、 明治時代に作られた地図は、 殆ど狂いはないそうです。