(2)観察の哲学
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物理学的な観察とは、 観察者が自分の座標系( そこには空刻が刻んであるとする )や 自分の座標系の中で静止している測定器具 を用いて、 刻々と、 物質の存在場所 や 物質の状態 を同定し続けることであり、 観察者がそれらを自分の感覚器官を用いて刻々と認識し続けることではない。「 観察 」とは、「 見る 」や「 聞く 」などの「 認識 」とは異なる概念なのである。 また、「 観察 」は、 今一瞬の行為、 または、 今一瞬の行為の無数の集まりである。 例えば、 心臓が1拍する時間を観察した場合、 その時間に、「 今一瞬の観察 」が無数に存在する。「 今の観察者 」は時間を絶対的な速さ C で移動しており、 かつ、 空間は移動していない。( 観察者と被観察物質との間に相対的な等速直線運動が存在している場合には、 観察者は主観的に自分が静止しているとみなす。)「 今の観察者 」が存在する時空点と時刻が異なり空刻が等しい時空点に存在している物質については、「 今の観察者 」は観察が出来ない。 観察が出来ないものは現実のものではない。 例えば、 負の時間の方向に観察者から離れており観察者と同じ場所で静止し続けている「 過去の観察者 」( それは過去の自分である )は、「 今の観察者 」には観察することが出来ない。「 今の物質 」を観察できるのは「 今の観察者 」であり、「 過去の物質 」を観察できるのは「 過去の観察者 」であり、「 未来の物質 」を観察できるのは「 未来の観察者 」である。「 今一瞬の観察 」は、 時間的には極小のものであるが、 空間的には極大のものである。「 今の観察者 」が存在する時空点と空刻が異なり時刻が等しい時空点に存在している物質については、「 今の観察者 」は、 その瞬間、 出会ってはいないが、 観察できるのである。( 物理学的な出会いとは、 複数の物質の同時刻同空刻存在のことであり、 衝突のことであって、 観察者が物質の存在を認識することではない。)「 今の観察者 」になれるのは人間を含めた万物である。「 今の観察者 」にとっては、 今一瞬のみが現実である。
時刻 0 に 空刻 0 に存在する物質が2次元平面上を等速直線運動をして移動する。 物質の存在に関する時刻 0 から時刻 t までの観察において、「 今一瞬の観察 」を、「 限りなく薄いガラス板のある部分に小さな赤い円柱を打ち込む。 ある部分とは物質Aが存在している所である。」と考える。 このガラス板を 時刻 0 から 時刻 t までの間にわたって無数に作成し、 それらを順に積み重ねていく。 そして出来上がったのが、「 3次元空間連続写真 」の中の赤い直線である。 赤い直線は、 時刻 0 から 時刻 t までの 物質の時空間移動を表している。 赤い線の高さは時刻を表している。 平面上を等速直線運動をしている物質の移動については、 私たちは「 今一瞬の観察 」を用いずに「 3次元空間連続写真に焼きつけられた物質存在の跡 」を用いる。「 今一瞬の観察 」からは「 物質が存在する空刻 」が得られ、「 3次元空間連続写真に焼きつけられた物質存在の跡 」からは、「 物質の移動の跡 」が得られる。 人間は、 空間( 2つの空刻の距離や方向 )については現実の瞬間に物理的な観察ができるが、 時間( 時刻とは違う )については現実の時間的後(うしろ)からしか物理的な観察をすることはできないのだ。 したがって、 時間が関係している「 物質の移動 」についても、 人間は、 現実の後(あと)からしか物理的な観察をすることはできないのである。
次に、「 今の観察者 」と対称的な「 ここの観察者 」を登場させてみる。 例えば、 静止している棒の長さを観察したとすると、 その空間に、「 ここ一処の観察 」が無数に存在する。「 ここの観察者 」は絶対的な速さ C で空間を移動しており、 かつ、 時間は移動していない。「 ここの観察者 」が存在する時空点と空刻が異なり時刻が等しい時空点に存在する「 そこの物質 」については、「 ここの観察者 」は観察できない。「 ここの物質 」を観察できるのは「 ここの観察者 」であり、「 そこの物質 」を観察できるのは「 そこの観察者 」である。「 ここ一処の観察 」は、 空間的には極小のものであるが、 時間的には極大のものである。「 ここの観察者 」が存在する時空点と時刻が異なり空刻が等しい時空点に存在する物質については、「 ここの観察者 」は、 その瞬間、 出会ってはいないが、 観察できるのである。「 ここの観察者 」になれるのは電磁波だけである。「 ここの観察者 」にとっては、 ここ一処のみが現実である。
今度は、「 今の観察者 」と「 ここの観察者 」とを合体した「 今ここの観察者 」を登場させてみる。 すると、「 今ここの観察者 」が存在する時空点と時刻または空刻が等しい時空点に存在する物質については( 今衝突している物質は別にして )、「 今ここの観察者 」は、 その瞬間、 出会ってはいないが、 観察できるのである。 しかし、 逆に言うと、 ほとんどの物質( それらは、「 今ここの観察者 」が存在する時空点と時刻も空刻も異なる時空点に存在するのであるが )については、「 今ここの観察者 」は観察が出来ないのである。「 今ここの観察者 」にとっては、 今一瞬またはここ一処のみが現実である。
そこで、 すべての物質を観察することが出来る「 観察仏 」を登場させる。「 観察仏 」にとっては、 時空間全体が現実である。 今日の相対性理論が設定する「 時空間の観察者 」は、 自分自身の座標系についてのみではあるが、 一瞬にして無限空間無限時間の物理学的観察が可能な「 観察仏 」である。 だが、 どうも、 この「 観察仏 」は 相対論が批判しているニュートン力学者のようであり、「 観察仏 」の観察内容は必ずしも正しいとは限らないようなのだ。
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